49歳で公務員辞めたおじさんの話

安定した収入がある公務員やめたその後の生活

ダイエットの歴史(後編)

4月25日に記事を書いたダイエットの歴史の後編を書きます。

 ダイエットと言うより、私自身の職場での歴史となって感じです。何故か仕事が上手くいっていると、体重は痩せてくるが、職場の環境は悪くなると太っいく感じです。



研修所への出向
 T庁から戻ったらまるで浦島太郎の状態でした。組織名は変わっているし、知らない人が多かった感じです。前任者の引継ぎはなし!(牢名主に配慮した意地悪)仕事内容も把握してなく、右往左往。引継ぎはそこの牢名主が行うとのこと。嫌な予感はしました。自分の業務がどこまで所掌か知らないので、牢名主を頼るしかありませんでした。牢名主から行き当たりばったりの指示。文書もなく、私は混乱しました。その班は班長もいなかったです。所属の長もいなくて、牢名主が仕切っていて、次第に私は神経がおかしくなっていました。今でいう、パワハラとモノハラと一緒になった感じです。その牢名主は上司を殴ったと伝説がある人。誰も関わりたくない方でした。どうして、こんな環境に私が異動しないといけないのかと憤りを感じました。牢名主は自分で仕事に火をつけて、人に丸投げする感じの人。
 体調を崩して、本省から離れて研修所に出向となりました。
 体重は73キロから83キロに増えました!


研修所の出来事
 研修所の上司は私を親切に受け入れて、色々と親切に仕事を教えてくれました。次第に余裕は出てきました。仕事は職場環境がいいと上手くいきますね。ただし、この幸せも半年しか続かなかったです。半年後7名中4名が異動となり、研修所の幹部総入れ替えでした。
 研修所は後一年で閉鎖するのにその作業はどうするのかと私は悩みました。おまけに異動した幹部3名は不祥事起こした方々で、まるでやる気なし。なんで、こんなところに来るのかと感じでした。
 係長で来た人はもう少しで育児休業を取る予定の方。本人も憤っていた感じでした。私は庶務と給与担当でしたので、育児休暇の制度を一から勉強しました。おまけに官署を閉める後始末をすることもやっていました。いい加減にしろと人事を恨みました。
 唯一救いだったのは、研修所の管理人と非常勤の職員の方が色々と私の業務を助けてくれました。何とか研修所を閉めて、元上司から推薦もあり、本省に戻りました。
 この時は色々と仕事は色々ときつかったけど、周りから必要とされていると感じたので、メンタルはそれほど、やられませんでした。


組織改正
   この時の組織改正は出先機関の仕事を本省に引き上げることです。その際、会計機関の廃止や出先からの引継ぎ等色々とありました。大変だったののは出先のデータを本省に吸い上げて、本省に引継ぎことですが、システムの修正やら財務省と日銀との打ち合わせやら大変でした。上司の助けもあり、その時は何とか切り抜けました。ようやく、落ち着いたと思ったら、その時は組織に貢献したと感じていましたが、異動がありました。


東日本大震災
 私はシステムが可動したばかりであり、異動はないと考えてました。そしてら、東日本大震災でてんやわんやしているS庁に異動となりました。課の予算担当とのこと。人も用語もわかりません。おまけに補正予算をつけろとか、財務の説明だ!とかで、部屋は殺気だっていました。人事はこのような非常事態の時に外の局の私でなく、S庁の慣れている人を持ってこなかったのでしょうか。職場も迷惑ですし、私もメンタルが持ちません。
 予算はついたのはいいのですが、物が不足しているので、執行は難しかったです。そんな感じで、上司からはどんな手を使ってでも執行せよと言われたので、元上司に相談したら、法令に基づかないやり方を取って、仕事をしたら、処分を食らう。トカゲのしっぽ切りになるよとアドバイスを受け上司に説明し、法令通りのやり方を取りました。ほかにも色々とやることがあり、次第にメンタルがやられて、最近頭痛や吐き気と眠れないと職場の上司に相談。
その時の体重は90キロ越で尿酸値は10を超えていました。